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「外へ向かう旅」と「内へ向かう旅」
G. パイクとD. セルビーのグローバル教育論の独自性

小関 一也

私たちが世界を学ぶために外に向かって旅するとき、私たちはまた自己の内を探る旅に出かけている。 2つの旅は、互いに補い合い、応答しあい、響きあっている(Selby,1999,p.132)。

パイクとセルビーのグローバル教育の核心は、「グローバルな世界」を探求すると同時に「グローバルな自己」を探求することにある(Pike & Selby,1999,p.14)。 この「世界」と「自己」の探求の相即性こそ、彼らの理論と実践をもっともよく特徴づけている。 この小論では、「外へ向かう旅」と「内ヘ向かう旅」の2つを視軸として、パイクとセルビーのグローバル教育論の独自性について論及してみたい。

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セルビーは、グローバル教育の研究の多くが「外に向かって世界を見ることを重視してきたが、 内に向かって内面性をみることを拒否してきた」(Selby,2001,p12)と述べている。 実際、学校やコミュニティのトランスフォーメーション(変容)が盛んに議論されてきたが(Anderson,1990;Tye & Tye,1992)、 それに比べて自己の内面のトランスフォーメーションが主要なテーマとなることはほとんどなかったといってよい。 例えば、ハンベイの「5つの地球的視野」(Hanvey,1975)とニープの「4つの教育内容論」(Kniep,1986,1987)は広く知られているが、ケイスは、 このハンベイとニープの研究を批判的に分析し、 従来のグローバル教育研究は教師から生徒に伝えたい「実質的な知識」の探求に偏っていると批判している。 その上で、ハンベイが提起した「パースペクティブ意識(perspective consciousness)」を発展させて、 「実質的な知識」以上に「世界の認識の仕方」を学ぶべきだと主張した(Case,1993,p.318)。 しかしそのケイスでさえも、「世界を見る見方」の重要性を主張しているのであり、必ずしも「自己を見る見方」を十分に意識してはいなかった。 少なくとも、パイクやセルビーが重視してきた「自己の可能性の探求」のような論点は完全に抜け落ちている。

このように「外へ向かう旅」偏重のグローバル教育研究にあって、「内へ向かう旅」を同様に重視していること、 また、2つの旅のつながりを強調していることが、パイクとセルビーのグローバル教育を鮮やかに際立たせている。

自己の内面性を問う方向性は、「外へ向かう旅」にも色濃く反映されている。 パイクとセルビーの「外へ向かう旅」は、地球規模の問題を理解することにとどまらない。 その目的は、私たちが無意識のうちに抱え込んでいる「支配的なものの見方(dominant perspective)」をどう乗り越えていくのかという問いに帰結する。 ここでは、とりわけ彼らの主張を特色づけるものに焦点を絞り、その背景となる思想とともに整理を試みたい。

(1)機械論的世界観への挑戦

機械論的世界観とは、「すべての現象は、各要素を分解し個別に分析することで、十全に理解できる」という考え方であり、 「細分化するものの見方(compartmentalization)」を基礎としている。 パイクとセルビーは早くからこのような世界観の限界を指摘し、 ホリスティックな世界観─あらゆるもののつながりを考えるものの見方─の必要性を唱えてきた(Pike & Selby,1988,pp.24-29)。

2人のホリスティックな世界観には、エコロジー、生命科学、東洋思想などからの影響を見てとれるが、 とりわけ現代物理学の量子論からの影響が大きい(Pike,1997;Selby,1999)。 特にD.ボーム、C.カプラ、D.ゾーアなどが、機械論的世界観に対してシステム論的世界観を対置したことと深く関連している (Bohm,1992;Capra,1991,1996;Zohar,1990,1994)(1)。 「あらゆるものが他のあらゆるものとのつながりの中で展開する」という量子論のシステム理論は、 パイクとセルビーの「グローバル教育の4次元モデル」の理論的枠組みとなっている。 例えば、「空間の次元」では、個人?ローカル(地域)?グローバル(地球全体)のつながりが、 「時間の次元」では、過去?現在?未来のつながりが、「問題の次元」では地球規模の問題どうしのつながりが、多様なレベルで探求されることになる。 他にも、「伝え方がメッセージになる」を合言葉に内容と方法のつながりが重視されたり、 グローバル教育の導入法として「インテグレーション」(教科を統合する導入法)が理想とされるのも、 2人のグローバル教育論がつながり重視であることを物語るものである(Pike & Selby,1999,pp.12-17)。

このようにあらゆるものにつながりを求めていくことを通して、細分化主義にもとづく「機械論的世界観」を乗り越えていくことが、2人のグローバル教育論の基底となっている。 今後も、ありとあらゆるつながりが探求され、彼らの理論と実践に加えられていくと見てまず間違いないだろう。

(2)2元論的世界観への挑戦

現代社会では、すべてのことがらを2極化しどちらか一方の優位を強調する2元論が支配的である(Selby,2001)。 例えば、自文化中心主義や人種?性差別などのあらゆる差別が、 「自分たち」と「それ以外」という見方で世界を2極化し他を否定するという同質の構造を持っている(Miller,1996)。 このような2元論的世界観を問い直し多様なものの見方に開かれていくことが、パイクとセルビーの教育論の中心に置かれている(Pike & Selby,1988)。

地球規模の公正を掲げるグローバル教育があらゆる差別の撤廃を目指すことは言うまでもないが、 2人のグローバル教育論は、特に「人間中心主義(anthropocentrism)」を乗り越えていこうとするところに大きな特色がある。 すなわち、「人間」と「自然」、あるいは「人間」と「他の生命」を区別する2元論的世界観への挑戦である。 例えば、ディープ?エコロジーの思想に賛同し(Naess,1973,1985;Devall & Session,1985)、 自然は人間の利用の対象ではなく、自然には固有の価値があるという考えを基本とする(2)。 そのため、掃除やリサイクルのような活動主義にとどまるのではなく(「浅いエコロジー」)、 大量消費型の現代社会をラディカルに問い直す(「深いエコロジー」)必要性を説くのである(Selby,2000,p.88)。 また、特にセルビーは、エコ?フェミニストの「女性へのレイプは自然へのレイプである」という考えに示唆を受けて(Plimwood,1993)、 動物の虐待(差別)が自然の軽視をはじめすべての差別とつながりあっていることを指摘する。 その上で、動物の権利や福祉を扱うヒューメイン教育が、グローバル教育の「忘れられた領域」として、 十分に探求されてこなかったことを問題にしている(Selby,1995,p.5)。

このように2人のグローバル教育は、「人間中心の(anthropocentric)」グローバル教育を排して、 人間を含めた「生命中心の(biocentric)」グローバル教育への特質を鮮明にしている(Selby,2000,pp.89-90)。 彼らのグローバル教育論においては、とりわけ自然や他の生命との共生を抜きにして、地球規模の公正の実現はありえないと考えてよいだろう (Greig,Pike & Selby;Pike & Selby,1995)。

(3)固定的世界観への挑戦

プロセス志向は、早くからパイクとセルビーのグローバル教育論の中心を担ってきた。 グローバル教育の学びは、「決められた最終目的地のない継続する旅」に喩えられ(Pike & Selby,1988,p.35)、 世界と自己の「トランスフォーメーション(変容)」が目指されてきたのである(Pike & Selby,1999,pp.24-26)。 この意味で、2人のグローバル教育論では、あらゆるものの見方が固定化されず常に変化のプロセス上にあると考えられる。

パイクとセルビーが、システム論的世界観に依拠していることは既に述べたが、彼らの理論の核心といってもよいこの見方も、 徹底的なプロセス志向を目指す2人からすれば、「今のところ、現在と未来の志向や行動について、首尾一貫した魅力的な枠組みを提供しているが、 いつかは別のものに取って代わられる」(Selby,1988,p.35)ということになる。実際彼らのシステム論的世界観は哲学的に深化している(Selby,2001)。 例えば、世界の相互依存を表すモデルとして、以前は「ウェブモデル(クモの巣?網目)」が好んで用いられてきたが、 現在ではそれを超える「ダンスモデル」が提起されている。ウェブモデルは、 すべてのものがクモの巣のようにつながりあっていることを視覚的にイメージできる有効なモデルであるが、 それ自体が静的であり、世界全体のダイナミックな生成変化のプロセスを表現することに適さない。 そのため、カプラが原子内の微粒子の運動を「宇宙のダンス(cosmic dance)」と喩えたように(Capra,1991,p.11/p.225)、 あらゆるものが全体とのつながりを持ちつつダイナミックに生成変化するプロセスを、ダンスの喩えで表現しようと試みている(3)

このように固定的世界観を乗り越えて、変化のプロセスにかかわることが、2人のグローバル教育の基底となっている。 当たり前だと思っていることがらを問い直し、新しいものの見方へと開かれていく姿勢こそ、2人のグローバル教育論を常に生成変化させてきた原動力であるといってよい。

「外への向かう旅」で世界の“しくみ”を理解しはじめた学習者は、同時に、その世界に生き、その世界とかかわる自己の可能性の探求を始める(Pike & Selby,1988)。 この世界でどのように生きるのか、また生きたいのかが問われることになる。

この「内へ向かう旅」を論じる際に、ホリスティック教育からの影響を無視することができない(4)。 ホリスティック教育は、ホリスティック(全連関的)なものの見方に立って「つながりを求める教育」であり、自己の内面の探求に深い洞察を提供してきた。 ここでは、2人のグローバル教育論がホリスティック教育とどのように結びつき展開してきたのかを中心に論じてみたい。

(1)ホールパーソン─自己の多面的な可能性の探求

ホリスティック教育の特徴の1つは、人間をホールパーソン(全人)として、 重層的?多層的に捉えることにある。人間の人格は、知性だけでなく、身体、感情、スピリチュアリティ(精神性?魂)など多様な要素の統合体として、 また、さまざまな文化的?社会的条件に規定される存在として描き出されている(中川,2006)。

このホールパーソンの思想は、セルビーとパイクの「内へ向かう旅」の重要な枠組みとして機能している 例えば、彼らは、自己の可能性について、「身体的、感情的、知的、スピリチュアルな次元が同等で補完的なものであるとみられるときに、 私たちの内面にある本当の可能性に気づくことができる」(Pike & Selby,2988,p.34)と明言している。同様に、「内面の環境」や「個人の健康」を論じるときも、 必ず、身体的、感情的、知的、スピリチュアルな次元のバランスのとれた成長や発達が中心テーマになっている(Pike & Selby,p.87/p.127)。

また、ハンベイの「パースペクティブ意識(perspective consciousness)」論(Hanvey,1975)を発展させて、 私たちのものの見方が「年齢、社会階層、信条、文化、民族性、ジェンダー、イデオロギー、言語、国籍、地域、人種、 性的志向」などさまざまな要因によって形成されていることを強調する(Pike & Selby,1999,p.153)。 さらには、シチズンシップやアイデンティティの議論をする際にも、その複合的?並立的性格が指摘されている(Pike & Selby,2000,p.196)。 これらは、ホールパーソンの思想をもとに、私たちがさまざまな文化的?社会的要因によって規定されていることを描き出そうとする試みだと考えてよいだろう。

このように、人間を重層的?多層的に捉えるホールパーソンの思想は、パイクとセルビーのグローバル教育論に深く根づいている。 「グローバルな自己」の探求とは、さまざまな要素が複雑につながりあい常に生成変化する内なる世界を旅することに他ならない。 頭も、身体も、気持も、魂も、つながりあい1つの全体として私たちが存在していると考えられるときに、自己の内にある可能性はさらに豊かさを増していくことになる。

(2)スピリチュアリティ─深層にある可能性の探求

人間を多層的に捉えるホリスティック教育は、自己存在の「深層」に位置するスピリチュアルな次元をもっとも重視する。 機械論的世界に生きる私たちが、自己の限りない深みを探求し、あらゆるものとのつながりをとり戻していくプロセスこそ、 ホリスティック教育の核心であると考えられる(Miller,1996,2000)。

こうした自己の深層の探求は、パイクとセルビーの「内に向かう旅」においても決定的に重要な意味を持っている。 スピリチュアリティこそ、彼らの「内に向かう旅」を読み解く鍵概念であると見てよいだろう。 セルビーによれば、「スピリチュアリティとは、自己内部にある、また、自己と世界との間にあるつながりをより深いレベルで認識すること」(Selby,2000,p.13)だと定義される。 すなわち、自然や真の自己と切り離されて生きる私たちが、深いレベルで、本当の自分の姿をとり戻し、 自分と地球の深いつながりについて目覚めることこそ、スピリチュアリティに込められた意味なのである。 そして、この自己発見とつながりの回復こそが、「内へ向かう旅」が目指す場所でもある。 もちろん、「内へ向かう旅」にあらかじめ定められた目的地があるわけではない。 学習者1人ひとりの可能性に応じて、旅する方角も多様であろう。 しかしだからこそ、さまざまな地球規模の問題を前にして、それぞれに自己の可能性を探求することが求められている。 自分の可能性を発見し、世界とのつながりに目覚めることによって、この世界でどのように生きるのかを問うことこそが、「内へ向かう旅」の内実であるといってよい(Pike & Selby,1988)。

このような自己の深層の探求方法として、芸術による自己探求、呼吸法、瞑想、リラクゼーションなどが、 彼らのグローバル教育の中に既に取り入れられている(Selby,2001)。 スピリチュアルな自己探求は、今後も、深いつながりを探求する理論的枠組みとして、 自己の本当の可能性をさぐる方法として、さらに研究が進んでいくに違いない。

「外へ向かう旅」が「支配的なものの見方」への挑戦であり、「内へ向かう旅」が 「自己の可能性の探求」であるとすれば、2つの旅はどこで出会うのだろうか。 パイクとセルビーは、この出会いについて直接多くを語っていない。 その問いは、彼らの理論と実践に触れた者が、それぞれの体験から解釈すべき究極のテーマであるのかもしれない。

しかし大きな視野から見渡すならば、グローバル教育のアクティビティ学習こそが、 「外へ向かう旅」と「内へ向かう旅」の重要な出会いの場の1つであることは間違いないだろう。 地球的視野から地球規模の問題を扱う参加?体験型学習を通して、 学習者はそれまで省みたことのなかった「支配的なものの見方」に気づき、その問題へ挑戦できる「自分の可能性」を発見していくのである。 そして、この2つの旅の出会いは、私たちの身の回りで具体的な行動として結実していくことになる。 「気づき」から「行動」へ、教室からコミュニティへそして世界へ、それこそが、パイクとセルビーが繰り返し強調してきたグローバル教育の核心に他ならない(Pike & Selby,1988,1995,1999,2000)。

また、2つの旅の出会いは、グローバル教育の学びが、自らの体験をふりかえり、それをわかちあう学びの場を提供してきたことと深く関連している。 パイクとセルビーが「ふりかえり」の段階を特に重視していることは、ここで強調されるべきだろう。 この「ふりかえり」を通して、学習者は自己を発見し、多様なものの見方や可能性へと開かれていくのである。 実際に、グローバル教育の学びでは、自らの体験を語ることで新たな気づきを得たり、互いの体験を語り合うことで自分の日常を変えていく力を得たりすることが少なくない。 コーネリーとクランディニンが指摘するように、各自の体験に根ざす語り、いわば物語は、 その人のすべてをあげた(知性、感情、身体、魂など)全体性の表現であり(Clandinin & Connelly,2000)、信頼できる仲間の物語は説得力を持って私たちの心に響いてくる。 この意味で、学習者1人ひとりが「外へ向かう旅」と「内へ向かう旅」の体験を自らの物語として語るときに、 また、互いの物語を意味あるものとしてわかちあうときに、2つの旅は重層的に響きあいながら、さらに広がりと深さを増していると考えられる。

これはあくまで私見であるが、パイクとセルビーが実践する学びの場は、 世界と自己のトランスフォーメーションを目指す「物語空間」とみることができるのではないだろうか(5)。 自分の体験を語り、仲間の体験に耳を傾け、未来のビジョンを語りあう、そんな1人ひとりの物語を織りあわせて、 新たなトランスフォーメーションを共に生み出していくプロセスこそ、「外へ向かう旅」と「内へ向かう旅」の出会いの場としてふさわしいように思われる。 仮に、「外へ向かう旅」が「大きな物語」を書き換えるために、「支配的なものの見方」へ挑戦するプロセスであるとすれば、 「内へ向かう旅」は自らを主人公とする「小さな物語」を綴るために、「自己の可能性」と「世界とのつながり」を探求するプロセスであるといえるだろう。 そして内と外へ向かう2つの旅は、「小さな物語」を紡ぎ合わせて新たに「大きな物語」を協創していくプロセスの中で、 すなわち、私たちの具体的な行動の中でこそ確かに出会うのではないだろうか。

1. 厳密には、深い精神的次元(魂やスピリットの次元)を含むか否かを境界線として、システム理論とホリスティック論は同一ものではないが、 近年の2人の研究動向は、明らかにより客観的なシステム理論からより精神性を重視するホリスティック論へと移行している。 システム理論とホリスティック理論の違いについては、中川吉晴『ホリスティック臨床教育学』に詳しい。

2. ディープ?エコロジストにとって、自然は守るべき対象ではなく、人間を包み込む生命そのものであり、あらゆる多様性に開かれた全体性(宇宙)へと通じている。 彼らの言う大文字の「自己実現(Selfrecalization)」は宇宙と同一化するスピリチュアルなプロセスであり、 地球生命全体を自己のアイデンティティとするような深いつながりのあり方を示している(Nacss,1985)。

3. セルビーは自己の存在を「分離した自己」「関係を結ぶ自己」「ダンスする自己」の3つに分類する。 このうちウェブモデルが描き出す「関係を結ぶ自己」は、未だに存在が一義的で関係は二義的であるという。 これに対して「ダンスする自己」は、関係が一義的で存在は二義的となる。 すなわち、存在は「全体の動的展開」における「生成の表現」として、絶えず生成変化する全体とのつながりの中ではじめて意味を持つことになる(Selby,2001)。

4. 私がデイヴィットにジャック(Jack [John.Pj Miller])を博士論文の副査に迎えたいと相談したときに、デイヴィットは「まったく問題ない。 私こそがジャック?ミラーだ」と答えたことがある。 それほど、パイクとセルビーのグローバル教育論はミラーのホリスティック教育論と結びつきが深い。

5. グローバル教育の学びを、「トランスフォーメーション」と「物語」をキーワードに読み解くことが、私の研究課題でもある。 このテーマについては別稿でさらに掘り下げたい。 なお、パイクとセルビーのグローバル教育を物語を視点にアプローチした論文としては、田中昌弥論文を参照されたい。